1993.02
★わが親友が問われた“殺人罪”のこと
ボード上でも議論沸騰尊厳死をめぐる“事件”

 殺人罪で告発される! ……というのは只事ではない。大変なことだ。本来なら人生が狂ってしまうほどの異常事態である。大事件である。そんなときに当事者が平然として、かつニコニコと笑っていられるとしたら、その人は阿呆である。さもなくば、余程の偉人か仙人である。
 昨年12月初旬、殺人罪で告発された医師を私は車に乗せた。行く先は宇都宮地方検察庁。その日は第1回目の「取り調べ」を受ける日であった。医師の名前は田中雅博といい、彼は栃木県益子町の名刹・西明寺の住職でもある。本誌読者では、PC-VANのSIG「坊主の辻説法」(JBOZU)のネットワーカー“薮坊主”としてご存じの方が多いかも知れない。
 ……と、ここまで読んだ方は、すでに「ははん、新聞やTVが大騒ぎしたあの事件のことだな」
と了解されていることだろう。
 どのような「事件」だったか? 記憶が薄れてしまった方、ご存じない方のために、その事実の概略をふりかえって見てみよう。
ネットワーカー薮坊主氏“殺人罪で告発”の発端
 昨年10月9日、益子焼の陶芸家・小川晶子さん(53歳)は、スズメバチに刺され西明寺普門院診療所に運ばれた。そのときすでに心拍と呼吸は停止していたが、田中雅博医師と妻の田中貞雅医師らの懸命の努力の甲斐があって小川さんの心臓は、かすかながらも動きはじめた。小川さんは、奇跡的に生き返ったのである。
 これは、麻酔指導医という資格をもつ田中貞雅医師の実力の賜物である。まさにプロの仕事は驚嘆に値する。
 しかし、小川さんの意識は戻らない。自発呼吸も再開したとはいえ、人工呼吸器による補助が必要だった。とくに心臓は強力な昇圧剤を注入しつづけなければ停止してしまう状態だった。
 5日目以降からは、医師や家族の不眠不休の努力も虚しく、自発呼吸が完全に停止し、対光反射も痛覚反応もまったく認められない状態になってしまった。さらに脳幹反射もすべて無反応。医師団は協議の末、もはや回復は望めず、心停止は早晩のうちに免れ得ないと判断し、そのむねを家族に告げたのであった。
 驚くべき申し出があったのは、このときである。家族全員の意見ということで、小川晶子さんの臓器を是非とも役立てて欲しい、との決意表明なのであった。この家族全員の決意は、過去20年の間たえず話し合われ、家族共通の意思として確認されてきたものだという。
 小川晶子さん本人が尊厳死協会に登録したリビングウィルが提示され、腎バンクやアイバンクへの登録カードを見せられ、さらに本人が署名した献体のための書類一式が提出されたとき、モノに動じないさすがの医師たちも感動で打ち震えた。
 そうであれば何としても小川晶子さんの意思を実現したい、と医師団が考えても、しかし問題があった。B型肝炎の抗原が陽性だったのだ。そのために、国立佐倉病院内の地方腎移植センターをはじめ各医療機関からせっかくの申し出を断わられてしまったのである。何とか役立てる方法はないかという家族の強い要請に、田中雅博医師は丸一日、臓器提供先の探索に奔走した。
懸命の努力のもとに尊厳死と臓器移植が進行
 通常の臓器移植は、臓器の提供を受けるレシピエントが臓器提供者(ドナー)を探し求めるが、今回は家族の善意を最大限に生かそうと、医師がレシピエントを求めて頼み回るという珍しい事例だ。
 やっとのこと、「頼み」をきいてくれそうな医療機関が見つかった。ただし、条件をつけられた。B型肝炎のe抗原が(−)で、e抗体が(+)なら臓器提供を受け入れてもよいという条件だ。が、そのための検査をし結果が判明するにはさらにもう一日待たねばならなかった。それまで小川晶子さんの衰弱しきった心臓がもつかどうか? 3人の医師の誰もが自信をもてなかった。
 翌日10月16日午後2時、e抗原が(−)、e抗体が(+)という検査結果が出て、臓器摘出の医療チームの到着を待つばかりとなった。田中雅博医師は、「このときまで小川さんの心臓がもったのは、小川さんと家族にとって好運以外の何ものでもない、有難いことだ!」とつくづくと思った。
 ここで、小川晶子さんと家族の意思について確認しておきたい。それは、
 @「いたずらな延命措置」の回避
 A腎臓と角膜の提供
という2つの要請である。強烈で、かつ崇高な要請であった。これらが実現された瞬間、医師の使命は終了する。
 その瞬間まで自己の全能力を傾注して懸命の延命処置を施してきた医師は、その瞬間から、それまでとはまったく逆の処置を採用しなければならないのだ。すなわち、尊厳死のための措置である。
 10月16日午後11時。麻酔指導医田中貞雅院長は、それまで延命のために行っていた昇圧剤の注入を終わりにした。以後、血圧は下がってゆく……。
 11時10分、田中貞雅医師が最後の血圧測定(50/26)をする。少し待ち脈が触れないことを確認した後、小川さんの長男・小川拓さんに合図をしてから、人工呼吸器のスイッチを切ったのである。
 11時14分。小川拓さん、人工呼吸器のチューブの連結部を外す。
 やがて、家族たちが見守るなかで心電図モニターの波形が平坦になり……
 11時26分。小川晶子さんの死亡を全員で確認する。
 移植のための腎臓の角膜の摘出が行われたのは、この後であった。
殺人罪の告発側には、
誣告罪の疑いが濃厚
 ……以上が、小川晶子さんの尊厳死の経緯であるが、まだ「事件」は終了しない。このあと11月30日、西明寺普門院診療所の医師2名が「殺人罪」で告発されるのである。
 田中雅博医師は私の無二の親友であるからして、私の見方・考え方には幾分かの我田引水があるかも知れない。このことを念頭におきつつ、私は、つとめて冷静に「告発状」を読んでみた。そのうえであえて言いたいのは、告発人たちの頭が異常なほどの先入観念・固定観念に凝り固まっているということである。
 どういうことかというと、普門院診療所の医師と家族が小川さんの救命措置を尽くさずに臓器提供を優先したかのように思い込んでいるフシが濃厚なのだ。
 このことは、告発状の、「……被告発人等の目的が、尊厳死ではなく、専ら臓器摘出=臓器移植にあったこと……」という文章に端的に示されている。
 これは、普門院診療所と小川晶子さんの家族の名誉を重大に毀損するものだ。
 さらに、新聞報道の「事実」を安易に信じ、事実の確認をしないで虚偽の申告をなすなど、告発人らの行為には誣告罪の疑いが濃厚である。
氏の“願い”は、ネット上で
どんな展開をみせるのか
 「高校の後輩に優秀な弁護士が多数いるのだから、誣告罪で逆告訴しろッ!」と怒鳴る私に、検察庁に向う車の助手席で田中雅博君は、「ネットワークのうえでさらに説法活動を続けてみるよ……」とニコニコと笑いながら話すのだった。「ネットワークってPC−VANか?」と私がたずねると、「いつも飯山が言っているような広義のネットワークさ」と相変わらずの笑顔だ。
 しかし次の瞬間、その笑顔がスウーッと消えて、「オレにとっての大問題は、どうして小川晶子さんの命が救えなかったのか?ということなんだ」と真剣な真顔で言った。
 ……こいつは、あくまで医者なんだ、と心で思いつつ、私は黙ってハンドルを握っていた。そんな私を無視するように、「小川晶子さんは、生前から菩薩のような人だったんだなぁ……」と田中雅博君は一人つぶやいた。これはおそらく“僧侶の独言”なのであろう。同時にまた、“僧侶の願い”でもあろう。
 巨大な現代社会のなかに広がるさまざまなネットワーク空間のなかで、田中雅博という医師であり僧侶でもある男の切実な“願い”は、今後どのような広がりを形づくってゆくのであろうか?

注)田中雅博氏のPC−VANのIDは、AAG69920。ハンドル「薮坊主」。

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