1992’11
★”ウソ”の効用
”偽り”を見抜く目養う

”オカマ声”にダマされて
金品を貢いだ男性150人!
 夏のころの話である。 男性なのに女性であるように装い、150人もの文通相手から、判明しただけでも総額で300万円もの金品をダマシとっていた男が逮捕された。
 警察の調べによると、今年の4月、この詐欺男は雑誌の文通欄に載っていた埼玉県の会社員(39)と架空の女性の名前で文通をはじめた。ある日、いい頃合だと見た詐欺男は、「お金をなくしてしまったの。2万円、貸して欲しいの。お願い!」
 などと女性の声色で電話をかけて、2万円を郵送させたという。
 詐欺男は昨年8月以来、様々な雑誌の文通欄に載っている男性に女性の声で電話をしたり、女性の写真を送ったりして、多くの男性を「信用」させていたそうである。女性名の自分宛に来る手紙は、自分の住むマンションの空き部屋を架空の住所にして受けとっていたというし、この詐欺男の女性の声色はプロはだしで、ほとんどの文通相手は疑いもしなかったらしい。
 「お会いしたい!」
という切々たる手紙に10万円もの大枚を同封してきた男性。デートの約束ができたので有頂天になり、5万円を送ってきた会社員。誰も彼もすっかりダマされていた。
 この詐欺男、警察の取り調べ室では、
 「最初はいたずらで文通を申し込んだところ、ダマされる男が多く、生活費が欲しくてやった……」
と供述していたという。
 いやはや、悪い詐欺男がいたものである。
 だが、それにもまして、ダマされる人間の多さにはビックリさせられる。私たち日本人は、こんなにもダマされやすいのだろうか?
 答えは、イエス。ダマされやすい。
 まだ耳新しい豊田商事事件では、年の功を積んだ多くの老人たちがダマされたし、寸借詐欺、結婚詐欺にいたっては日常茶飯事である。マルチ商法的ダマシもあとを絶たない。
 私たち日本人が大変にダマされやすいことは、これはもう確かなことなのである。
”ダマされやすい”のは
ウソを極端に嫌う体質から
 私達は、なぜダマされやすいのだろうか?
 その原因は、ウソをつくことを極端に嫌う日本人の体質にあると私は考えている。
 明治時代以来、私たちは、ウソを神経質なまでに排除してきた。攘夷運動という外国人排斥運動は短期間で終了したが、ウソを排斥する運動は現在にいたっても続いている。
 「ウソつきは泥棒のはじまり」
 「ウソつきは地獄に落ちる」
 「ウソをつくと閻魔さまに舌を抜かれる」
といった標語はいまだに健在であるし、私たちは、学校や家庭で、そして職場で、
 「正直な人間になりなさい」
 「誠実であれ」
 「実直な人間になりなさい」
と叩き込まれてきた。
 ほんの些細な見逃してもいいウソなのに、
「どーしてウソをつくの!!」
と、ヒステリックに叫ぶお母さんの声はどこででも聞かれるし、それを見ているお父さんも、当然! という顔をしている。
 「誠実」とか「至誠」といった教育目標を掲げている高校は全国いたるところにあるし、「真実一路」という言葉を座右銘にしている人も数えきれないだろう。
 文学や小説においても、私生活を実直そうにトツトツと語る私小説が圧倒的な比重を占めてきて、純粋なフィクション(ウソ!)はほとんど人気がなかった。
 とにかく私たちは、正直が大好き、ウソが大嫌いなのである。
 こうなると、当然ウソに対する免疫もなくなってしまっている。ウソを見抜く能力など育つはずがない。ダマされやすいのは当然なのである。
”些細なウソ”を排斥すると
人間関係はきしみはじめる
 ここまで拙文を読まれて、
 「この飯山一郎という男は、ウソを奨励している。けしからん奴だ!」
と憤慨した読者が一人や二人はおられるハズだ。事実、とあるBBSで、今回お話ししているようなことをチラッと書いてみたところ、
 「ウソを奨励するような人間と真剣な対話はできない!」
と言って、私とは話しをしてくれなくなった誠実な公務員の男性がいたくらいであった。
 しかし、もう少しのご辛抱をいただきたい。別段私はウソを特段に奨励しているわけではない。いや、少しは奨励しているかもしれない。たとえば、ほんの些細な子供のウソ。
 「お母ちゃん、おなかが痛いから学校休む」こんなウソは、母親なら子供をよく見ているからすぐに見破れる。しかし、
 「どーしてウソをつくの! 駄目! 学校に行きなさい!」
と怒鳴ってはいけない、ということなのである。ここは、いったんはダマされたほうがいい、と言っているのである。つまり、
 「あーら可哀相! 休んだほうがいいわ」
と出る。そして、楽しい会話の時間をもつ。子供は母親のあたたかな優しさにふれて、きっと学校へ行く勇気がわいてくるはずだ。
 そしていつの日か、
 「ウソだとわかっていたけど、あなたと一緒にいたかったから学校を休ませたのよ」
と告げるといい。必ずや子供は、母親というオトナの人間がもつ偉大さと心の深さを知ることになる。
 こういうことは、夫婦間にも、恋人どうしにも、友人関係にもあてはまる。BBSのなかでの人間関係についてもそうだ。些細なウソはメクジラたてて排斥すべきものではないのである。
明治時代のリーダーはウソを嫌う下級武士
 ところで、何としても排除しなければならないものがある。それはイツワリである。
 イツワリというのは、自己の利益のために人様をおとしいれる悪質なダマシのことだ。
 私は、このイツワリを厳しく排斥し、激しく否定する。
 ウソとイツワリの区別は、明治時代以来、あいまいになってしまい、ウソとイツワリは両方とも排斥されるようになってしまった。これは、明治時代のリーダーたちが江戸時代の下級武士層出身者であったことと関係がある。
 武士はウソを嫌う。ウソをつかない! これは、武士の重要な道徳倫理だった。戦場で生きるが武士であって、「イザ!鎌倉」というときのために日常生活においても戦(いくさ)の鍛錬をし、心構えをピチッと固めておく……これが武士の勤めとされていた。
 武士としての心構えでまず大切なことは、ウソを絶対につかないことだった。ヘラヘラと笑わない、ということも武士としての大切な心構えの1つだった。命がけの戦場で武士がウソをついたり、ヘラヘラと笑っていたのでは戦争には負けてしまうのである。戦争に負けることは、自分だけでなく一族郎等が全て滅ぶことを意味するから、武士たちにとって自分たちの道徳倫理を守り、強固なものにすることは、まさに生命が賭けられていたことなのである。
 明治以来、こういう武士たちがリーダーとなって日本の国家社会がつくられてきたわけであるから、道徳も倫理も文化も芸術も、その根底には武士の精神が流れている。
 何かというと「切腹」と言う政治家たち、「いさぎよさ」を賞賛し、ウソを極端に嫌う社会的風潮、……いまだに日本には、武士の倫理が生きているだ。
民衆は「ウソも方便」を採用
ウソ・ハッタリ大会で芸競う
 いっぽう、町人や農民はどうであったかというと、これは「ウソも方便」という文化である。窮屈な江戸封建社会のなかでは、人と人との関係も窮屈になりがちだった。当然人々はイライラし、喧嘩も発生しやすかった。
 「喧嘩と火事は江戸の華」とは、実は、江戸の暗さを明るく言っただけなのだ。こうした人と人が衝突しやすい窮屈社会において、ウソは、またとない潤滑油だったのである。
 江戸のムラ社会も、町民の社会と同じような閉塞した社会だった。記録によると、ムラでは「ウソ・ハッタリ大会」といった催しがよく開催されていたようである。面白いウソをついた者や上手に「大風呂敷」を広げる者たちがたくさん集まってきて芸を競っていたのだ。
 もちろん、町民の社会でも、農民の社会でも、イツワリは厳禁であった。さらに、人々はウソとイツワリを区別し、ウソとイツワリを見抜く眼力をもっていた。そして人間関係が凶悪になりそうなとき、軽いウソや冗談を言って、お互いに難を逃れた。
 ……現代。新聞の社会面には、ほんの些細な屁でもない事が原因で、血が流れる喧嘩になってしまった、という記事が連日のごとくでている。これはほとんどが「ウソも方便」という知恵のない人達の悲劇なのである。
 ああ、また今回も「常識」に激しく挑戦してしまった。私が今回述べた「ウソの効用」、シャクにさわる方は、以上の全てがウソ! と思っていただきたい。(笑)

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